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TEL. 027-322-1314

いけばな松風本部事務局 群馬県高崎市芝塚町1890

流派紹介

歴代家元


初世 塚越応m  1921〜1979

応m(おうけい)ははじめ画家を志し、女子美術学校(現女子美術大学)において日本画を修めました。
後に「絵を描く気持ちで花をいけること」を試み線条や色彩を立体的に組み合わせ、日本画のマチエールを盛花(もりばな)に盛り込みました。
古典華が主流だった当時にあって、剣山と水盤を用いる盛花に日本画独特の線を生かし、色彩の配置にも工夫を凝らし、極めて絵画的に作品を構成していく松風流は多くの門弟を得ました。
 
二世 塚越生武  1980〜1993

生武(なりたけ)は「暮らしの花」を提唱しました。
生武は植物の天然自然に供え持つ風合いが、人の暮らしにもたらす「雅」を大切にする華道を目指しました。
古来からの伝統を守り現代の生活空間に調和する花あしらいとは何かを自らに問いかけ、志を同じくする門人とともに松風流盛花を不動のものとする研鑽を重ねました。

三世 塚越応鐘  1993〜
一般社団法人日本華道連盟理事長
群馬県華道協会会長
高崎市華道協会会長
群馬県文化協会連合会会長
高崎市文化協会会長

不易流行を見つめることが肝要である事は華道とて同様です。
古伝を大切に護り、時代の新味を見逃さない美の造形に一身を捧げることは「暮らしの花」を提唱した二世生武の本義を継承する戦いであると、当世家元応鐘(おうしょう)は考えます。
古伝に花の不易を見つめ、時代とともに生きるいけばなを模索することこそ当世の務めであると日夜精進を重ねております。
    

松風流は大正101921)年、初代家元塚越応m(つかごしおうけい)によって興流されました。

応mははじめ画家を志し、女子美術学校(現女子美術大学)において日本画を修めました。
結婚後、
夫の赴任地の秋田でその土地で古くから続く流派の門をたたき、いけばなと出会いました。
そこでは絵画の腕を見込まれ主に家元作品のデッサンを任されていました。


そのため、他の門下生よりも技術の習得が早く数年で教授資格を取得、若干27歳にして独立し一派を立ち上げることとなりました。

床の間に飾る立花(りっか)や生花(せいか)などの古典華が主流だった当時、剣山の発明と共に盛花(もりばな)という水盤を用いた新しいいけばなが確立されました。

応mは、この盛花に日本画独特の線を生かし、極めて絵画的に作品を構成していく独自のスタイルを確立しました。
水盤に色彩感溢れる空間を構築し、諸派、諸流の競い合う華道界に新風を吹き込みました。


大正から昭和にかけて、都市の中流階級の住宅には洋間が多くなり、従来の花を飾る空間としての床の間は、時代とともに住宅環境の変化により衰退していきます。
鉄とコンクリートとガラスから構成される現代の建築物の空間を飾る花として、いけばな花材・花器とも新素材が用いられ、「自由花」「現代花」として多くの人々を魅了していくことになります。

大正15年、夫の赴任地である熊本市に居を構え、八代支部の発足や、毎年デパートで流展を開くなど流活動が急速に盛り上がり、教授資格を持つ門弟が養成されました。

昭和18年、夫の郷里群馬県高崎市に帰り家を相続。
熊本を支部とし、高崎、東京を中心の本格的活動を展開、高崎の地を本部と定めました。
この頃東京に同名の流派があり諸々の混乱を避ける為、先方の家元と話し合いの末、当流が盛花の専門流派であることから二文字を足し、「松風流盛花」と流名を変更致しました。


昭和55年、二世家元塚越生武(なりたけ)就任。

長く高校の国語教師をしていた生武は定年を前に退職を決め、初世を助けるため花の道に入りました。
植物の自然に供え持つ風合いが人の暮らしにもたらす「雅」を大切にする華道を目指しました。
古来の伝統を守り現代の生活空間に調和する花あしらいとは何かを自らに問いかけ、志を同じくする門人とともに松風流盛花を不動のものとする研鑽を重ねました。



平成5年、三世家元塚越応鐘(おうしょう)就任。

応鐘は初世のもとで若くから花の技術を学び、時代とともに移り変わる花と人との関りを肌で感じてきました。
花嫁修業の一環として多くの人が習い、家事の一つとして考えられていたいけばなは、住環境の変化、女性の社会進出、趣味の多様化、少子高齢化などの様々な要因から、近年置かれている状況が大きく様変わりしています。
応鐘は、
より自由な視点からいけばなを模索し展開させたいと考え、創流85周年(平成17年)を期に、流名から盛花を外し「いけばな松風」(いけばなしょうふう)としました。


平成20年、塚越応駿(おうしゅん)副家元に就任。

3世家元の長男として生まれた応駿は、家業を継ぐに際し、古伝を大切に護りつつ、時代の新味を見逃さないことが肝要と考え、大学卒業後、当時愛好者が増えていたフラワーアレンジメントを学ぶため渡英しました。

帰国後、モダンデザインの先端として注目が集まっていた都内の外資系ホテルにてブライダルやイベントの花装飾を手掛ける会社に就職。

京都にオープンした同系列のホテルでチーフデザイナーを務めた後、31歳で高崎に戻り今日に至ります。

いけばな松風 高崎本部
群馬県高崎市芝塚町1890

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